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出エジプト記(その2):16〜40章

目次

 

はじめに

 主の力強い手によってエジプトから救い出されたイスラエルの民は自由を獲得しました。そして、約束されている地への旅をはじめました。しかし、彼らの獲得した自由は「自分の好きなことを好きなように行う自由」ではありません。それは、新たに主を主人として、それに仕える民となるための自由です。そして、新たな主人に仕える民となる契約に関する記事が出エジプト記の後半に描かれています。

シナイへの旅(15:22-18:27)

 葦の海での勝利のあと、イスラエルの民はシナイの荒野へと旅をはじめました。その途中で彼らは水について(15:22-27; 17:1-7)、さらに食物について(16章)モーセにつぶやきました。主は彼らのつぶやきを聞き、それらに対して罰することをせず、むしろ水を与え、マナとうずらを与え、彼らを養われました。さらには、アマレク人との戦いにおいても主はイスラエルに勝利を与えられました(17:8-16)。それと共に、モーセはしゅうとであるエテロの知恵により、民の上に千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立て、自ら一人が民全てを裁かなくてもよいように整えました(18章)。

シナイにおける契約(19:1-24:11)

 シナイの荒野に到着したイスラエルの民は、山の前に宿営しました。その時、主がモーセに語られたのが19:3-6の言葉です。このカ所で主は三つのことを語っています。まず、主がイスラエルの民にされたこと(19:4)。エジプト人からイスラエルの民を救い出し、自らの所有とされたこと、そして民は主のなされた素晴らしいわざを見てきたことが最初に述べられています。次に、この主の素晴らしい働きを経験したイスラエルの民が、主の声に聞き従い、契約を守ることによって主に応答したならば、彼らは全世界を所有する方の特別の所有物、宝となることができる、という提案(19:5)。もちろん、主は特別な配慮をもってイスラエルの子孫たちを覚えてこられました。父祖たちと交わした約束のゆえに、彼らをエジプトの手から救い出しました。しかし、主がここで提示する律法に従うならば、特別な意味での神の民となることができます、あなたがたはその契約を結びますか、と主はここで提案されたのです。もはや単なる大きな家族という血縁関係で結ばれたものではなく、特別な国になることができる、とイスラエルを招かれました。三つ目に、神の民となることは「祭司の国、聖なる民」となることである点(19:6)。「祭司の国、聖なる民」の表現からわかるように、この契約を通して、イスラエルは礼拝をもって主に仕える存在となります。そして、主の性質である「聖」を自らに映し、異邦人を神のみもとに導く国となるのです。

 かつて主はアブラハムに対して、「地の全てのやからはあなたによって祝福される」(創世記12:3)と約束されました。この約束の成就の始まりが、このシナイにおける契約です。主の救いのわざに応答し、主と契約を結び、主に従って歩むことを通して、全ての民に対して主の祝福を取りなす働きに主はイスラエルの民を招かれました。民はこのことをモーセを通して聞き、そして、「われわれは主が言われたことを、みな行います」(出エジプト19:8)と答えました。民は主と契約を結ぶことに同意したのです。なお、イスラエルと主との契約において特徴的なことは、この契約が全世界の王である主と主に完全に依存しているイスラエルとの契約であるという点です。つまり、強者(主)と弱者(イスラエル)の間で結ばれた契約であり、弱者が強者に従うことによって、強者から特別な恩恵を賜ることができる契約です。ですから、弱者であるイスラエルに対してのみ、聞き従うべき要求があるのです。

 イスラエルと主が結ばれた契約の具体的内容(つまり、イスラエルが聞き従うべき律法)が20:1-23:33に書かれています。十戒に始まり(20:2-17)、様々な律法(21:1-23:33)が続きます。後者のことを「契約の書」と呼んでいます。この契約の書には奴隷の取り扱いについて、殺人や傷害の取り扱いについて、窃盗の取り扱いについて、共同体に住んでいる社会的弱者について、ささげものについて、訴訟について、安息日について、様々な祭りについて、カナンに住む人々が礼拝する神々についてなどが書かれています。様々な面を取り扱っている法律ではありますが、契約の書だけで、国の全ての問題が取り扱われる訳ではありません。なお、律法が提示されたあと、契約が締結されたことが受け入れられ、そして契約の食事がもたれました(24:1-11)。

幕屋と金の子牛(24:12-40:37)

 先に述べたように、イスラエルと主との契約には主への礼拝が含まれています。その礼拝は民の宿営の真ん中に建設される幕屋を通して行われました。そして、民の真ん中に主が住んでおられることが、幕屋の存在によってハッキリと表されました。そこで、主は幕屋の建設のための細かい指示を25:1-31:11でモーセに命じています。ここでは、幕屋の設計図のみならず、そこで仕える祭司がなすべき行動の指針も書かれています。その後、幕屋はモーセに語られた主のことば通りにつくられ(35:4-40:33)、それが奉献された時、主の栄光が雲の姿をとって幕屋に満ちました(40:34-38)。契約を結んだ民の真ん中に、主とその祝福が留まり、人々は礼拝を通して主との交わりの中に入れられたのです。

 しかし、この幕屋を作成する過程で、イスラエルの民は大きな危機を経験しました。モーセがシナイの山において主から幕屋の設計図をいただいている間、民はモーセがなかなか下りてこないことを心配し、ついにはアロンにモーセの替わりになる神を造るように要請しました。そこでアロンは人々の金の耳環から金の子牛を造り、「これはあなたをエジプトから導きのぼったあなたの神である」と宣言しました(32:1-6)。なんとイスラエルの民はモーセを金の子牛に替え、主なる神を鋳た像としてしまいました。神の絶大な力を象徴するために子牛が選ばれました。しかし、主を何らかの像とするこの行為は、すでに与えられていた十戒を破っていました。

 これに主は怒り、イスラエルの民を滅ぼしつくすことを決意されました(32:9-10)。エジプトの軍隊による破壊よりも恐ろしい破壊が彼らを待ちかまえていたのです。しかし、モーセは民のために主と掛け合いました。そして、イスラエルの民は主の民であること、さらに主の民が滅ぼされたのをエジプト人が見たら彼らは主に対してどう思うか、という二点を指摘し、主の怒りを留めました(32:11-14)。更に、イスラエルと共に行かないと語った主に対して、共に行ってくださることをモーセは求めました。主はモーセの提案を受け入れると共に、主の別の側面をモーセに知らせられました。これまでのエジプトとの戦いの中で、主は背教者やご自身に敵対する者を徹底的に破壊する強大な勇士として明らかにされていました。「強大な力」が主の名前であると思われていました。しかし、主はモーセに自らの憐れみを示されました。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」(34:6-7)。この表現は主の恵みとあわれみ、更に正義を全うされる姿を表しています。そして、主はイスラエルの民と共に行くことをあわれみのゆえに約束されましたが、同時に主に背いた者たちへの厳罰をも行われました(32:25-35)。

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